浜松市出身。桐朋学園大学音楽学部ピアノ専攻卒業。
桐朋学園子供のための音楽教室助手、南青山幼児音楽研究所講師を経て、現在、東京音楽大学および付属高校の准教授。数々のコンクールの審査員を務めるかたわら、各地でアドバイスレッスン行っている。
音大生が自身のキャリアを考えるために、卒業後のキャリアについて音大生ならではの視点でインタビュー。
今回のゲストは、東京音楽大学及び付属高校の准教授であり、音楽界に人材を輩出するかたわら、未来世代の音楽振興に目を向け、児童への音楽教育の現場でも活躍する小高明子さん。
「音楽が好き」という思いが人を育み、かけがえのない宝物になる。音楽で人を育てる彼女のメッセージは、目先のキャリアにとらわれがちな私たちに、音楽と向き合う意味を教えてくれました。
伴奏の世界で、自分なりの道を模索した
-まず始めに、現在のご職業を教えてください。
全てが音楽に関わることです。たとえばここ(東京音楽大学。以下「東京音大」)で教えることもそうだし、地方へ行ってアドバイスレッスンをすること、コンクールの審査をすること、それから私のこれからの仕事になる音楽物語(既存の絵本を題材にし、物語に合った曲を作り演奏する活動。絵と音楽と語りの融合を図る。)。
だから音楽以外のことはまずないと言って等しいです。音楽教室の先生、付属の音楽教室、高校、大学、全部です。
-音楽を始めたきっかけは何かありますか?
私たちが多分ヤマハの音楽教室の一期生になります。
昔、大阪に住んでいた頃、ちょうど私が年長さんの頃にヤマハの音楽教室ができて、やってみないかと言われたことが、音楽に入ったきっかけです。
でもその頃はピアノなんて言うのはちゃんとお家にあるわけじゃないので、足踏みオルガンという小っちゃいオルガンだったの。
歌うことが好きだったしピアノも嫌いではなかったので、細々と一応続けました。
そして、小学2年生のときに、アップライトを買ってもらって、そこでちゃんとしたピアノの先生につきました。
だけど、相変わらず外で遊ぶ方が好きだからサボるし、あまり練習していなかったのね。
そんな中、小学3年生のときに、その先生の発表会で初めて『貴婦人の乗馬』を弾いて。
それでようやくやる気になり、スイッチが入って、それからちゃんと練習するようになったのかな。
-それは『貴婦人の乗馬』がすごくお好きだったからなのですか?
好きっていうことではなかったんだけど、結構かっこよく弾けて。
きれいなドレスを着せてもらって、髪もちゃんとして。
まずないじゃない、そんなことなんて。
弾けたことがよかったのか、そういうお洋服を着せてもらったのがよかったのか分からないけども、そこでスイッチが入ったかなと思います。
-それから本格的に音楽の道に進んだのですね。
中学へ上がって、さあ、自分に何ができるんだろう?ってみんな中学ぐらいになると考えることがあるじゃない。
将来どうしようかな?って考え始めたとき、じゃあ本格的にピアノをやってみようかなって。
中学1年生くらいのときに、たまたま浜松に音楽高校ができたのよ。
それを中学の先生から聞いて、それを目指すのもいいなと思いつつ、どうしようかと考えていました。
そんなとき、母がね、ピアノの前に座っているのと、机の前に座っているのとどっちがいい?努力するんだったらどっちがいい?って言うんですよ。
もう絶対ピアノなのね。
それが決め手になったかな。
中学2年生のときにようやく良い先生が見つかって、その先生がたまたま浜松の音高の先生だったので、そのまま音高を受けて入りました。
-先生が決め手になったのですね。音大受験もやはり先生を軸に決めたのでしょうか?
伴奏をすごくやりたくて。
ソルフェージュの先生が歌の先生でね、たまたま、小高くんやってみる?って言われたのをきっかけに、結構伴奏を引き受けていました。
初見も結構きいていたから、先生から「君、伴奏をやるのも一つの仕事になるよ」って言われて。
そこで、音大を探すときは、伴奏に長けている先生はどこにいるんだろう?っていう探し方をしたのね。
大島正泰先生(以下「大島先生」)が桐朋学園大学(以下「桐朋」)にいらして。音高で習っていた先生が大島先生と懇意にしていたこともあって、すごく運がよく、トントン拍子でその先生のところへ習いに行くようになって。
その流れで桐朋を受けるようになりました。
ところがね、大学に入ってみんなの伴奏を見ると、たとえば歌の人と合わせているとき、歌が「今日ちょっと調子悪いから2度下げてくれる?」っていうと、パパッと下げて弾くのよ。
それから指揮の伴奏のときには、ピアノ二台で伴奏するんだけど、みんなスコアを見て弾いているの。弦楽器や管楽器の。
チェロはハ音譜表だし、管楽器は移調楽器がいっぱいじゃない。
それをちゃんと移調して弾いているんだよ。
はあ、こりゃ私には無理だなと思って。
もちろん伴奏はたくさんやっていたけど、これを仕事にして、プロとしてやっていくのはすごく大変だろうなと悩みました。
そんなとき、ゼミで音楽教育法というゼミがあって、その先生のグループに入って勉強したのが、教える道に進むきっかけになりました。
-伴奏の道は…
諦めた。
周りは次から次へといろんな曲を弾いているし、コンクールでボンボン入賞してくるし。
「ああ、ちょっと世界が違うな」と思ったの。
でも、友人はたくさんいたし、音楽が嫌にはならなかったんだよね。
-周りに負けないように頑張るという気持ちでしたか?それとも自分なりに頑張る…?
自分なりよ。
負けるとか勝つという意識はなくて、自分なりに頑張る。
教える現場で、子どもたちと関わる
-先程、教育法ゼミのお話を伺いましたが、教える道に進むことを決めてからどのように今のお仕事にたどり着いたのですか?
2年間教育法のゼミでいろいろなことを教わりました。
先生のゼミはすごくおもしろくて、ゼミ生がアルバイトで教えている子がいたら、みんなでその子のことについて話し合いました。
みんなそれぞれ5,6人から10人ぐらいの生徒を抱えていて、どこにも手を焼く子っているじゃない?
そこで、その子のカリキュラムを書いて、こういう教え方をしたらこう変わったという事例をみんなで出し合って、それについて先生に対処法を教わって。
そうやって考えることを通して、ああ、やっぱり教えることがいいなって。
自分に一番向いているのかなと思いました。
就職活動と言えば、河合楽器の講師を育てる仕事をしました。
河合の講師を養成する専門学校があって、高卒の子を2年間全寮制で講師に育てるところでした。
そこで講師をやってみないか?と父がそこの社長から誘われて、3年働きました。
ただ、何が何でも育てて、2年後にはその子を河合の講師として送り出さなきゃいけないというプレッシャーとストレスで、3年で辞めました。
桐朋の音楽教室の助手、副手という仕事を1年間やらせてもらったこともありましたね。
その後、大学でお世話になった大島先生の奥様がやっていらっしゃる、南青山にある小さい子のためのわらべうた音楽教室で教え始めたの。
わらべうたを使って子どもを育てながら、ピアノを教える教室で、導入の教材としてわらべうたを使うのがすごくいいなと思って。
河合で3年間働いて、辞めたらその話がぽんと来たわけ。
そこで、週に2回教えることになりました。
浜松で教えている生徒もいたので、浜松と東京で教えていました。
-卒業してすぐに、東京と浜松の2拠点で教えていたのですね。
行ったり来たりしていました。
私が32歳のときに、父が亡くなったんですけど、その当時お世話になっていた中島和彦先生が、私が小さい子をどんどん育てているのをご存じで、東京音大に来てみない?と父が亡くなった年に言ってくださって。
その先生は亡くなっているけれど、東京音大の教授でもあった方です。
-それから現在に至るまで東京音大で?
そう。
だから、ここで30何年?教えています。
音楽とキャリアは、切っても切れない関係
-今のご職業のやりがいや、頑張る力になることは何ですか?
譜面も読めなかった小さい子が、ある程度弾けるようになって「先生、楽しいね」って言ってくれるのが、やっぱり一つだよね。
それから、学生たちが、紆余曲折あったとしても、卒業して、卒業後も発表会にぜひ出たいですって言ってくれること。
弾けないけれど、先生に会いに行くって言ってくれる子もいるしね。
そうやって人を育てること。
そのゴールが音楽の世界じゃなくても、人を育てていくのが今一番のやりがいかなと思う。
育ってくれているしね、いろんなところで。
-長い間大学で教える中で、学生のキャリアの歩み方や音楽との向き合い方に変化はありますか?
大いにあります。
私たちの年代の音大卒業当時は、本当に引く手あまただったんだよね。
音大卒業生も少なかったこともあるんだけど、卒業すれば仕事があり、教えることができた。スタジオで弾く人もいるし、学校の先生になる人もいる。
私も卒業していきなり20、30人の生徒がいたし。
まあ、もちろん増やす努力はするんですけどね。
そういう時代でした。
それから30年以上が経って、今はもう世の中の動きが全然違うでしょう。
今の時代に音楽に一生を費やすことを考えている学生がどれだけいるかって考えると、ちょっと不安ですよね。
-地方の音大で入学者数が減少しているようですね。
将来音楽の仕事に就くのが難しいと思って、音楽が好きなのに、親が音大を勧めたがらないケースもあるようです。
-音楽以外の分野で活躍している音大生もたくさんいるので、将来への不安から音大を諦めてしまうのはもったいないと思います。
私の場合は、音楽が好きで、ずっとやってきたからやめられないっていうか、やめたくない。
だから音楽とは離れられない。
音楽とどう関わってきたかでだいぶ違うとは思うけれど、自分が良いと思える音楽との関わり方が一番良いと思うんだよね。
もちろん、音楽を捨ててもらいたくはないし、せっかくここまでやったんだから、もうちょっと頑張ってとは思うけれど、音楽が仕事になるか趣味になるかはその人の価値観。
だから止めようとは思わないし、こうした方がいいよというように勧めもしない。
やっぱり自分で考えるべきだと思うんだよね。
-音楽から離れてみて、あらためて良さに気付くこともあるのかもしれませんね。
そうそう。
だから、これまで見ていなかった世界を見てみたいと思ったら、とりあえずやる。
他の世界のことも勉強してみたいと思うんだったらやっていいと思うし、完全に離れちゃったことによって、本当に音楽の良さが分かることもあるだろうから。
人それぞれじゃないかなと思うよ。
でもね、やっぱり音楽っていいなってみんな言う。
だから結果的に何らかの形で音楽の仕事に戻ってきたり、あるいは他の仕事をしながら趣味で続けていたりする人が多いかな。
音楽が好き。だから私は人を育てる
-すごく深い、奥行った質問かもしれませんが、世の中には音楽をやっている人とやっていない人がいる中で、先生はどんなところに音楽の意義を感じて音楽をやっていらっしゃいますか?
一つね、こんな例があって。
吹奏楽でトロンボーンを吹いてる男の子を教えたことがあります。
私の知り合いがその子の学校の吹奏楽部の指揮をしていて、その子が東京音大を受けたいって言い出したから見てくれないかって言われて。
その子、感性はすっごくいいの。
だけど、悪い奴じゃないんだけどちょっとグレていて。学校も行ったり行かなかったりみたいなね。
だけど、本当にね、トロンボーンはとても良くて、ピアノも弾けたのね。
ああ、この子本当に音楽が好きなんだなあと思っていたら、あれだけグレていたはずなのに、決定的に悪くはならなかったんだよね。
そしてなんとか合格して入学しました。
音楽を好きで続けていれば決定的に悪くはならないというのをそのとき感じた。
それはやっぱり音楽の力なのかな。
クラシック、ポップス、ジャズ、ジャンルに限らずどこかで聴くわけじゃない。
聴くことによって思い出や夢、あるいは後悔が呼び起こされる。
刹那的かもしれないけど、そういう回想の時間をもたらしてくれるのは音楽しかないのかなって思う。
何気なくふっと自分の中に入ってきて、癒してくれる存在というか…
-形がないからこそ、どんな場所にも溶け込む存在だと感じます。
先生が音楽を好きな理由は何ですか?
いや、良いんだよね。
とにかく良い。
クラシックに限ってだけれど、楽譜の奥に作曲家がいて、作曲家の奥にその当時の世界史があって。
そういうものに触れることによって、人として厚みが出てくるんじゃないかと思う。
アンサンブルをやっていると「音楽って良いな」と思うことが何回もあったのね。
アンサンブルや2台ピアノ、連弾で息が合うことは、なんて素敵なんだろうと思うし、自分を忘れられるっていうのかな。
埋没できるっていうか。
音楽が体の中に染み込んでくる。
その感覚が忘れられないから、また音楽に触れたいっていう気持ちになるんだろうね。
-今後のキャリアについてはどう考えておられますか?
やっぱり人を育てたいっていう気持ちは変わらない。
小さな子をある程度まで育てていきたいというのが一つと、音楽物語を通して音楽を好きな人をたくさん育てていければいいなと思っています。
-音楽物語を始めた経緯をお聞きしたいです。
宮沢賢治の注文の多い料理店。
それを連弾で弾くから、先生、ちょっと本を読んでください。朗読してくださいって言われたのがきっかけかな。
音楽物語を初めて開催したのは今から20年ぐらい前。
今でも覚えている。
大雪の日にも関かかわらず、200人ぐらいお客さんが来てくださって。
音楽だけだと、やっぱりある程度の知識がないとダメじゃない?
それから絵だけだと、絵を見る力がないとダメでしょ。
言葉だけだと、子どもにとってはちょっと煩いわけよね。
でも、その3つが一つになると、どんなに小さな子でもシーンとして最後まで聴いているの。
音楽が訴える力は大きいと実感しました。
音楽を好きになって!将来世代につなぐ音楽愛
-先生にとって、音楽とは?
すべてだね。
とりあえず今のところはね。
だから私から音楽を取っちゃうと何も残らないかな。
将来世代の子ども達にもそういう気持ちを味わってほしいと思う。
別に専門的にやらなくても、音楽の良さをわかってもらい、音楽に救われることもいっぱいあることを知ってもらえたらと思います。
テレビ番組でよく、この曲で人生を救われたみたいな話があるじゃない?
それを聞くと、最後に救いをくれるのは音楽なんだ。ああ、すごいなと思った。
音楽をやっていなきゃ、クラリネットをやっている主人とも会えなかった。
-音楽を好きになってほしいという気持ちが原点にあると感じました。
最終的にはそうね。
私が、ずっと教える仕事をしているのは、やっぱり音楽が好きだからこそだし、みんなにも好きになってもらいたいから。
コロナがあろうが、何があろうがめげずにやれたのは、音楽があったからじゃないかと思うんだよね。
教え子も本当に音楽が好きな子は一般就職してもいまだに弾いている。
発表会で、学生に混じって弾いてくれるOBたちがいるのね。
十何人いるんだけど、音楽以外の仕事をしてる人もいます。不動産とか金融とかいろいろ。
みんな弾きたくて発表会に出るのよ。
だから好きな子は続くんだって。
嫌いだったらやめているかもしれないし、家庭の事情でやめざるを得ない子もいると思うんだけれど、好きだったら一生ものになるから。
-キーワードは「音楽を好きでいること」ですか?
キーワードです。
必ず何かの足しになると思うんだよね。
飯の種になるかどうか分からない。
だけど、音楽に励まされて力をもらえるはず。
今、音楽で食べていくのはたしかに大変で、特に演奏家としてやっていけるのは本当に微々たる人数じゃない?
でもね、素晴らしい演奏家が素晴らしい先生になるとは限らないんだ。
素晴らしい演奏家って結構天才肌が多いじゃない?
そういう人はね、教えられない。
自分が自然とできてしまうから、なぜできないのかが分からない。
だから、何でもいいから、がむしゃらにやってみて自分の道を見つけて。
若いうちは時間がいっぱいあるから。
-最後に、音大生にメッセージをお願いします。
人と比べて落ち込んでしまったり、モチベーションが下がってしまったり、不安要素が大きくなってしまったりすることがあると思います。
その前に、まず人として最低限やらなければいけない、守らなきゃいけない礼儀を守ってほしい。
それがまず一つ。
それを4年間培うことによって、必ず世の中に出てから役に立ちます。
礼は尽くさなきゃいけない。
人間として当たり前にやらなければいけないことだから。
謙虚な気持ちでいれば、どんなものでもいつかは実ってくるの。
みんな上手で困っちゃう、私はこれからどうしようって思う気持ちはすごくよく分かる。
だけど自分に向いていることって必ず見つかるの。
100人いたら100人みんなそれぞれ、向いていることがあると思う。
私が今まで育てた何百人、何千人という生徒が、時間がかかったり、それなりに紆余曲折がありながらも、何か掴んでいる。
それから、人との出会いは大事にすること。
それは音楽云々じゃないと思う。
人との出会いの上に音楽があればいいと思うのね。
私の弟子でも、この子は良い仕事をしているなって思う子は、人間性を大事に考えていて、その結果皆さんの信頼を得ている。
人は人でいいのよ。
上手い人は上手い人で、確かに上手いだろうけれど、私にはこれがあるよっていうものを一生かけて探せばいいんじゃない?
それがすぐ見つかるかは分からないけれど、人間って死ぬまでに絶対プラスマイナスゼロになると私は思っているの。
だから良いときがあれば本当にとんでもなく悪いときもあるから。
それが死ぬまでに相殺されて0になるということ。
不思議だなと思うけど、それが私たち人間に与えられた運命なのかなと思います。
皆さんも本当に紆余曲折、良いことも悪いこともいっぱい経験しながら、己を信じてやるしかないのかな。
頑張ってください。